動作の速い合宿免許

「神道は祭天の古俗」主張して大学の職を追われた久米邦武の事件、南北朝正閏問題、家族制度批判の講演により処分を受けた岡村司事件、さらには美濃部・上杉論争等一連の問題を通して、学問的真実も学会での通説も、ひたび国民教育に好ましからず判断されれば、それは「異端の説」として教育界から排除されることになり、教育学問的成果の結合の望みは断たれてしまったのです。
こうして教育は学問ではなく国家結びつき、国民大衆は科学から切り離されて、せいぜい断片的で実用的な知識が与えられるにすぎなくなりました。
戦前、東北大学で哲学を講じたKの此喩を借りていえば、学問教育のあいだには「梯子」がなかったのです。
そしてこのことは実は、知識人の(思考行動の断絶のパターン)を生みだした。ものその根源を同じくするものです。
それは、日本の近代化の根源的ひずみそのものを反映していたといえましょう。
他方学問の自由は、教育学問の区別論をてこに、教育の自由の犠牲の上に大諸相配学の自治論結びついて、かろうじてその慣行を確立していきました。
河合栄治郎は「凡そ大学を除く他の社会に於て、何かの言論が禁止されようも、唯大学のみは、唯一の許された区域して、自虹なる研究が許されねばならない
……危険なる思想の発表は学外に差止められようも、大学に於ては許されねばならない」(河合栄治郎「時局・大学・教授」『日本評論』一九三八年三月号)のべ、その特権的自由を主張しました。
そして、たしかに、大学には〝危険なる思想″が許されてもいました。
会田雄次はつぎのように当時の高等教育を回想しています。
「むかしの大学の理念いいます。、ちょうど密教みたいなもので、私なんかが高等学校にはいったとき(昭和初年)、たんに壬申の乱いうのを習わされた。
いままで習ったこともない壬申の乱について、それは天武天皇の謀略だ、万世一系などはぜんぷ誤りであるいうようなことを、先生のほうがダーツ講義するわけです。ね
する私どもがどう感じたかいう、自分はエリートだという意識です。
大事を打ち明けられた、自分はエリートだ、そしてそうという国家への奉仕感というか、つまり使命感です。
おれたちにはわかるけれどもほかのやつにわからしてはいけないんだという……エリート意識ですね」(『自由』一九六六年七月号、座談会発言)
たしかにエリート教育の場には「学問の自由」はありました。
しかしそれは(批判の精神)に支えられた自由ではなく、むしろ批判精神を売り渡すことによって、支配的エリートへの道につながる自由でした。
こことでは教養が卑俗な実利主義エリート意識に結びついていたのです。
福沢諭吉が鋭く指摘していたように、真実が支配階級に独占されている限りにおいて、その支配は安泰です。
旧制高校的自由もおそらくこのような基盤のもに成立した。いえましょう
その上さらに大学ても、国家主義の呪縛において例外ではなく、その学問研究も、「国家ノ須要」な「実学」が求められていました。が、一九一八年の大学令では「国家思想ノ洒養二留意スルコ」が加わり、やがて、ファシズム下においては、「大学ハ国家ノ重要ナル学府シテ、国体ノ本義ヲ体シ」て研究が行なわれるべきことが求められ、また、「学問ノ研究学生ノ教授ノ間ニハ明確ナル区別ヲ存シ、不適当若シクハ未熟ナル学説ヲ教授スルガ如キコナキヲ要ス」されました。(教学刷新評議会「教学刷新二関スル答申」一九三六年一〇月一九日)
教育を国の統制のもにおくために援用された学問教育の区別の論理は、やがて研究の自由教授の自由を区別する論理して学問の自由の根を枯らし、学問をも国の統制のもに従えるにいたったのです。
「たとえ社会に自由なくも、大学にだけは自由が保障さるべきだ」(河合栄治郎)する論理すら通じなくなっていったのです。
こうして戦前戦中の教育においては、国民学校から大学まで、真実は隠され歪められ、子どもや青年の人格は無視され、人間性は奪われていました。
そこでの国民教育は、国家の道具的存在しての国民(公民、皇国民)を鋳型にはめてつくりだす装置だったといえます。
そこにあったものは人間を育てる教育ではなく、政府によって「善導」される教化であったのです。
戦争による日本の破滅への道は、学問教育の破壊の過程を必然的に伴っていました。
そしてその道は、天皇制の病理ではなく、まさにその本質に由来する必然的帰結であったいわねばならないのです。
教育対民法で、天皇制教育体制そこでの義務教育観は、子どもの権利の確認良心の自由を内に含む、国民の権利しての教育の思想に根本的に対立します。
この対立をきわだたせた事例の一つして、民法をめぐっての法典論争があります。
フランス人ボアソナードを中心して、フランス革命の落し子であるフランス民法典を典拠してつくられたわが国最初の民法草案は、自然法思想にもづく人権思想を中核していましたが、そのことは親権の解釈にも端的に現われていました。
その草案理由には、「親権ハ父母ノ利益ノ為メ之ヲ与ウルモノニ非ズシテ子ノ教育ノ為メ之ヲ与ウルモノナリ
子ノ教育ハ父母ノ義務ニシテ其権利二非ザレバ其方シテ監護懲戒ヲ与ウル錐モ之ヲ其ノ権利看倣スコヲ得ズ
一切ノ権利ハ子二属シ父母ハ只義務ヲ有スルニ過ギズ」(傍点筆者)あり、子どもの権利親権の義務性が大胆に主張されています。
また、法典調査会で、梅謙次郎委員は、穂積八束委員の子どもの権利否定論に反論して、「親はその子を必ず教育する義務がある
それは国家に対してではなく子に対してである」とのべたのです。
「民法出ヂテ忠孝亡ブ」という穂積八束のことばに象徴されるように、天皇制家族国家半封建的社会関係のなかで、民法の存在自体がわが国近代化の苦悩を象徴的に示しています。
民法制定過程で、法典調査会において、この親権規定をめぐってつぎのような疑問が出されました。
たとえば、「義務ヲ負ウ上云ウコハ省キタイ……子ヲ監護教育スルコハ親ノ権利ヂアロウ」(穂積八束委員)、「子ヲ監護教育スルコハ国家二対スル義務ヂアロウ……子カラ請求スル権利ヲ与エルコ上云ウコハ怪シカラヌコ」(尾崎三郎委員)等
これらの発言は、わが国の家族における子どもの地位を端的に示しています。
「子どもの権利」という思想は、まさしく親に対しては不孝、国家に対しては不忠を意味するものでした。
これらの反論をまめた「法典実施意見書」は、民法が意法の精神に抵触するして反対し、つぎのようにのべています。
「我意法は君主を以て主権の本体なし、君主の命に非ざれは、以て法するに足らずせり……然るに民法が天然法(自然法)を認め、法は人世自然に具備するものにして、国体の意思に依りて始めて定まるにあらざるが如き精神を以って主義せるは大に国体に背反するもの云うべき(星野通『民法典論争史』一九四四年)
この意見書では、さらに、教育の精神民法の思想が根本的に矛盾することが指摘され、草案をめぐる対立は、良法対教育の矛盾してもらえられていたのです。
そして、現象的にはたしかにそのとおりでした。
民法草案の背後にある思想は、「権利しての教育」の思想をいわば胎児して持っていたのですが、当時の現実的諸関係のなかでは、その権利しての教育の思想を萌芽して認めるこさえ困難なほどに国家主義的教育思想が圧倒的に強かったことを、この「民法対教育の矛盾」という現象は示しているいえましょうが伝統主義者にっては、民法は古きよき秩序を破壊するもの映りました。

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